【まとめ】書籍:生き物が大人になるまでの感想レビュー

今回はタイトルにある通り。

書籍生き物が大人になるまでを読んだので、その感想とまとめを伝えておこうと思います。

この書籍を買ったきっかけってなんだろう?って考えた時に、ほぼすべてが興味本位で。

このブログでは基本的に「ビジネス」に関してのことしか書いていないし、一見すると「生き物が大人になるまで」はあんまり関係のない話のような気もする。

多分この本を手に取る人って、小さいころ図鑑を見るのが大好きな人だったんじゃないかなぁ。

当然僕もその一人で。

だけどなんだろう。

読んだ後は、「人生」「生き方」「成長」「親子」

こういった様々な事柄が見えてくるような気がして。

かなり面白かった1冊でした。

動物とか昆虫とか生き物が好きな人は結構得られるものも多いんじゃないかな。

知ると人間が見えてくる

まずこの「生き物が大人になるまで」を開くと1ページ目にあるのが「知ると人間が見えてくる」っていう一文なんですね。

この1行が僕はこの本の伝えたい事柄を表しているような気がしていて。

確かに「生き物が大人になるまで」というタイトルの通り、クモがどうやって子育てをして、どうやって大人になっていくのか、であったり。

はたまた、キツネの親子の壮絶な関係なんかを記していたり。

基本的には「動物の成長や親子関係」なんかが描かれます。

でも、そういった生き物の生態を知ることによって、何が得られるのかって、生き物の不思議な世界を除くこと以外に「人間」が見えてくるんですよね。

そりゃそうですよね。

昔のことわざで「井の中の蛙大海を知らず」なんて言葉がありますが、僕ら人間の世界では当たり前のことが、動物の世界では当たり前じゃないことがある。

いや。

むしろそういったことのほうが多い。

でも僕ら人間は「動物の一種類」に過ぎない。

じゃあ、生物学的にどっちのほうが正しい?と聞かれた「動物の一種類」に過ぎないのであれば、生物学的に正しいことのほうが正しい。

そうやってくみ取れるわけです。

親のために生きる子供はいない

例えば。

その中で印象的だったのは、「親のために生きる子供はいない」という部分。

人間の世界では、親を大切にして敬い、親孝行をすること、が大正義になっています。

もちろんそれは大事なこと。

でもそれが過敏になって、「自分を犠牲にしてまで」するものじゃない。

動物の世界では、親は子供を育てるため。

そして子供は自立するために、成長していきます。

この後自立していけば、キツネは「独立した狐」として別の場所で活発に生き、親となり、その子育てを継承していく。

これが自然な流れ。

つまり、子どもが親のために自らを犠牲にすることはなく、親から引き継いだことを、自らの子供に託すことが正義なわけです。

こうした生物学の常識が見えてくると、人間が見えてくる。

確かに親孝行は大切ですが、それ以上に「自らを犠牲にして」親や親族、友人なんかに尽くすことがあったりします。

でもそれは生物学的に不自然な行為であって。

「自らが生きていく。そして子孫につないでいく」

上から下に流れるのが、普通なわけです。

つまりここでのメッセージというのは「自分を一番に大切にすること。子供ができればすべてを伝え教育すること」

こういったことが見えてくるわけですね。

子供に嫌われながらも自立を促すキツネ

この「生き物が大人になるまで」ではこういった話が随所に出てきます。

例えば、先ほどのキツネの話では親が子供を襲う瞬間が来るそうです。

それまで本当に子煩悩で、狩りの仕方や生活の仕方など、あらゆる「生き抜くすべ」を親が子に教えます。

そしてある時期を過ぎた時。

いつもの通り、親の後ろを子キツネがついていくと、なわばりに入るところで、親におそれます。

でもこれは「食べよう」という意気込みで襲っているのではなく、「もう自立する時だ」と促しているわけです。

でも子キツネはそれが分からずに、何度も何度も親のところに行こうとする。

でも親キツネはそれを拒み何度も何度も子供を襲う。

そうして子キツネはあきらめ、別のところで生き「自立」する。

要するに自立するための「愛情」だったわけですね。

子供に食われて死ぬ母クモ

また僕が大嫌いな「クモ」の話で印象的だったのは、「子供に食われて死ぬクモ」でした。

クモは基本的に子煩悩で、子供を育てるタイプの生き物です。

(子供を育てない生き物がいることにもびっくりですが。)

そんな母親のクモが、母親である自身の体液を子供に与え、子供に食べられて一生を終えます。

要するに、生き物にとって「子孫を残す」ということが、生きる意味であり、意味を失い子供を産めばそこで一生を終えていくのが、生物だということ。

でも人間はどうだろう。

子供を産んでも、死ぬことはあまりないし、「子孫を残す」ということが意味なのであれば、その場で死んでもいいことになる。

けれどそうなっていないのは、「人間の子供は未熟」で生まれてくるため、教育が必要だから、だとされています。

4足歩行の場合、十分に子供をおなかの中で育て、産むことができます。

だからシカの赤ちゃんなんかは、生まれた時からシカで、生まれてからすぐに立ち上がって歩き始める。

でも人間はそうはいけない。

それは二足歩行となり、おなかの中で十分に育て上げることができなかったため、未熟な状態でこの世に生を受ける。

そのうえで人間は非力だからこそ、言語を扱い他社とコミュニケーションをとって生き抜いてきた。

だからこそ「子供に伝えること」が多くあるため、親が子供を産んでからも親は生きている。

そんな話から「おばあちゃん仮説」なるものが出てきます。

おばあちゃん仮説

おばあちゃん仮説というのは、おばあちゃんがいてこそ人類は発展していった、というもの。

要するに、産むことができなくなったおばあちゃんは、「知恵を教える」ことだけに特化することができる。

そして子育てに専念することができたため、子供はより多くの知識を吸収し育つ。

そうして人類は反映してきた、というのば「おばあちゃん仮説」というものですが、生物学的に見れば、かなり不思議な光景で。

生物学的に「子孫を残す」ことができなくても生きている意味は、そこにあるんじゃないか、といった話まで出てきます。

要するに、僕ら人間は知能を発達させてきましたが、その知能は「経験」によって培われ。

その経験というのは、計り知れないほどの価値がある。

おばあちゃんの経験というのは、人類の成長を促進させてきたため、「おばあちゃんが死ぬことは図書館1つがなくなることと同じだ」なんて言う人もいたりします。

「親子3代生き残っている。」

これも僕らにとって当たり前の話ですが、生物学的に見れば不思議な話で、「強きもの」にしか与えられない特権だということが、この本の中で出てきます。

感想レビュー

まだまだ生き物の不思議な生態や生き方、その戦略に関して伝えきれないほど話が出てきます。

樹齢千年の木はどうやって生き延びているのか。だとか。

本能と知能とのどちらに頼って生物は生きているのか。だとか。

樹齢千年の木でいえば、実は中の幹はすでに死んでおり、外側だけの幹が成長を続けています。

よく「創造と破壊」といった言葉があり、成長するためには「壊して再生させる」ことが重要だといいますが、これを体現しているのが「木」だったりします。

この話も面白かったし、成長曲線の話も、人間にかなり通じる部分がある。

また「雑草」の話なんかも心に来たりして。

よく「雑草魂」なんて聞きますし、踏まれても立ち上がるのが雑草と勘違いされていますが、踏まれた雑草は立ち上がりません。

倒れても日の光が差し込むのなら、そこで倒れたままでいるのが雑草です。

要するに、倒れていてもそこで花を咲かせられるのであれば、その場にいとどまる。

「大切なことを見失わない」のが本当の雑草魂だ、と著者は伝えています。

こんな感じで、生き物はそうだし、草木などの植物の話もいろいろ出てきて、本当に伝えきれない話ばかり。

(ふつうって何?っていう人間が作り出した、平均や偏差値といった空想の出来事なんかも面白い)

んで。

こうしてみていくと、僕ら人間にとってごく当たり前のことが、全然当たり前の世界じゃないということが見えてくる。

アリからしたら、僕ら人間の生き方は謎が多いだろうし。

キツネからしたら、僕ら人間の生き方は甘さも多いだろうし。

でもそうしていろんな生き物の生き方から死に方までを見ていくと「人間が見えてくる」

本当にこの本は「生き物を知るようで人間を知る本」であったりするんだと思います。

生き物たちが立派に生き抜いている姿に、僕ら人間の悩みの答えをもらえる。

そんな本かなと思いましたね。

小さい頃図鑑なんかを読みふけるのが大好きだった人は、すらっと1時間ぐらいで読めると思うので、ぜひ読んでみてみてください。