最近よく思うのが、「他人の人生を生きてはいけない」ということ。
日本では結構、自分を犠牲にする生き方をし、他人に尽くすことが美徳とされていますし、自分が我慢することで、相手が楽になるのなら、それで良しとします。
でもボクは、自分を犠牲にする生き方が、「一番の悪」だと思っています。
自分を犠牲にしなければ、相手を幸せに出来ないのなら、それはやるべきではないと思っています。
カフェのトイレで起こった衝撃の事件
例えばの話。
友人と二人で無人島に行って、互いに食料もなくなり、飲み水もなく、貧弱で弱り切ったときに、友人から「最後に残ったおにぎり食べなよ!」
そう言われても、ボクなら食べれません。
また、自分のエゴで弱りきった友人からもらうおにぎりは、絶対に美味しく味わえないと思います。
また、この記事を書いている、つい先ほど、こんなことが起こりました。
ボクがおなじみのカフェに行き、席に着いた時、突如として腹痛に襲われました。
コーヒーにも手をつけず、一目散にトイレに駆け込み、用を足していたのですが、入って1分もしないうちに、「ゴン」「ゴン」と、ドアをノックする音が聞こえました。
おそらく、ノックの強さから、相手の人も、我慢の限界が近いのでしょう。
カンタンに想像がつきました。
「早くでないと申し訳ないな」
そう思ったので、入った瞬間ではあったものの、まだお腹の痛みは収まっていないものの、自分の「もう少しトイレで、用を足したい」という欲を我慢して、すぐに出ることにしました。
結構、腹痛持ちであるなら、気持ちがわかってもらえると思うんですが、お腹が痛いときって、うんちが出ただけじゃ、お腹の痛みは収まりませんよね。w
第一波が来て、
第二波が来て、
時間をおいて
第三波がきて。
全部を絶えきって、ようやくスッキリするのが腹痛持ちのトイレ事情です。
(汚い話ですんません。食事中の方は、さらにすんません。)
このときトイレから出たのは、第一波が過ぎた段階でのことでした。
まだ「ぎゅるぎゅる」というお腹の痛みは残っていた物の、「ドアの向こうの人も我慢の限界だろうな」ということから、言わば自分を犠牲にして、トイレを出ました。
そして、ドアを開けた瞬間、驚愕しました。
自分を犠牲にして、相手を思いやった結果
「すいません。どうぞ!」
ドアを開けて、そう言おうとした瞬間、トイレの外には誰もいませんでした。
ドアのノック音さえ、なかったかの様に、トイレの外にはだれ1人として立っていなかったのでした。
もちろんこれは、トイレという小さな出来事ではありますが、自分のお腹の痛みより、相手の痛みを優先して、トイレをゆずったわけです。
「自分を犠牲にして相手のために」
こう思うのが、日本の美徳なので、おそらくボクの行動は、日本人として当たり前の行動だったのでしょう。
でも結局残ったのは、我慢しきれずに、別のトイレを探しに行った人と、トイレを途中で切り上げ、痛みを我慢した自分。
これだけでした。
他人の人生を生きる生き方をしては行けない
確かに「相手を思いやる」という風習は素晴らしい日本の文化です。
ただ相対して、「自分を軽視していい」ということ、とは全く違います。
自分を犠牲にして相手に尽くす。
これは言わば他人の人生を生きているのと同じこと。
他人の人生を生きることとは、相手によって、自分の行動は制限されるし、自分がしたいことも、全て相手次第になってしまう。
結局相手の顔色を気遣い、八方美人になりきり、自分の好きな選択を削ぎ落とされて行く生き方です。
「選択する権利」
これこそが、ボクは自由ということの1つの定義だと思います。
それを他人の人生を生きることで、奪われて行く。搾取されて行く。
だから、他人の人生を生きてはいけない。
そう思うんです。
無人島の例で言えば、自分が幸せで、満たされているからこそ、友人にも心よく、おにぎりを渡せる。
反面、自分が不幸せで、どん底といった状態なのに、友人に恨み口で、「おにぎりあげるよ」と言っても、もらう友人でさえ、気持ちよく受け取れません。
今回のトイレの件も、腹痛があるけれど途中で切り上げ、他人にトイレを譲った結果、だれも得しない形になりました。
待つ人も本当にギリギリなら、別のトイレを探すでしょうし、待てるならドアの前で待つでしょう。
譲る人もトイレで無駄な時間を居座るのは論外ですが、自分がきちんと用を足した後に、待っていれば、相手に譲る。
これで互いに気持ちよく利用することが出来るわけです。
気をつけていても、気付かないうちに他人の人生を生きている可能性が少なからずあります。
幸せっていうのは、自分が満たされているから他人へおすそ分けできるわけです。
ですからまずは、自分を満たすこと。
自分を軽視しないこと。
他人の人生を生きないこと。
それが自由な人生を生きる為に大切なんだと思います。