新海誠監督の映画:天気の子を見てきました。
この「天気の子」って映画を観終わった後、早速レビューを書こうと思ったわけですが、これって結構難しい。
面白かといえば、面白い。
楽しくないかといえば、そうじゃない。
でも弾け飛んだぐらい面白いかというと、そうはいえない。
一方で難しいか、と聞かれれば端的に見るのは難しくない。
そんなような、「甲乙つけがたい。でもそれは自分が天気の子に関して把握しきれていないのでは?」というような葛藤があって。
それも全て引っかかるのは「天気の子は賛否両論分かれる作品」という風に、事前に言っていた新海誠監督の言葉にありました。
「天気の子」あらすじ
一応見ていない人のために、この天気の子のあらすじを伝えて置くと。
主人公の森嶋保高(確か16歳)が、フェリーに乗って東京にいくところから物語は始まり。
島出身の保高は、東京へ家出をする形で東京に出ていく。
ただ、未成年ということもあって、なかなか仕事を探すこともできず、ネットカフェを転々としたり、時には外で寝たりと東京の冷たさに打ちのめされていく。
仕事が見つからず生活する場所にも困り果てた時、マクドナルドで雨風をしのいでいると、マクドナルドの店員であった天野陽奈が、ハンバーガーを渡してくれる。
多分ビックマック。w
この天野陽菜がいわゆる、のちに判明する「晴れ女」。
シンプルにいえば、この保高と陽菜のラブストーリーが、この天気の子のストーリー構成。
東京の冷たい洗礼を浴びている時、このハンバーガーを差し出してくれた優しさから、保高は陽菜に好意を寄せるっていう流れ。
でもこの時は特に進展はなく。保高は仕事探しに翻弄する。
その時、東京に向かうフェリーの中で、助けてもらった(雨嵐で危険にさらされてた保高)人に名刺をもらっていたことを思い出し、その名刺伝いに連絡する。
その名刺の男が須賀圭介。この須賀圭介が小栗旬の声の人。
そしてその会社で働いている夏美が、この須賀圭介の姪に当たる女子大生で、一緒に須賀圭介と働いていて。
この須賀圭介と姪で女子大生の夏美と一緒に保高は働けることになる。
めっちゃわかりやすくいえば、保高と陽菜のラブストーリーで。
それを支えるのが、この須賀圭介と夏美って構成。あとは陽菜の弟の天野凪。
これぐらい覚えておけば問題ないかと。
「天気の子」中身(ネタバレ含)
ここからは若干のネタバレも含まれるので、まだ見てない方はちょっと飛ばしてもらえればと思います。
保高が東京での仕事を見つけ(須賀圭介と夏美のいる会社)、住み込みで働き始められた後。
偶然、陽菜を街で見かけます。
「あの時ハンバーガーをおすそ分けしてくれた子だ!」ってなって、お礼をしようとするわけですが、そこには2人の男の取り巻きが。
「何やってんだろう?」って見渡すわけですが、どうやら水商売(身体を売る?)的な関係性で。
ホテルっぽいところに行こうとしていた陽菜と男二人でしたが、なんだか陽菜は嫌そうな表情をしている。
そこで保高は助けるようにして、陽菜を連れ出す。
男二人は追ってきて、次第に距離がつまり、保高は男二人に捕まってしまう。
「お前いきなりなんなんだ?」
そう詰められた時、仕事がなく、家出状態で歌舞伎町を徘徊している時に、たまたまゴミ箱の中に隠されていた拳銃を隠し持っていたため、その拾った拳銃を突きつけ、2人に向けて威嚇する。
「おもちゃだろ?!」
男はあざ笑うわけですが、保高もおもちゃだとその時は疑心暗鬼。
ただ、陽菜を助けるためと発砲して見ると、本物の拳銃だと知る。
そこで、男二人は腰が引け、その瞬間に陽菜を助けて逃げ切ることに成功。
ここで保高と陽菜とが正式に出会うわけです。
どうやら陽菜は親を失っており、弟と二人で過ごすにはお金が必要で。
でも保高と初めて出会ったマクドナルドのバイトはクビになってしまい、新しく仕事を探さなければ行けなかった。
その時に、水商売をしようとしていたのを保高に見つかった。
そんな流れでした。
「どうにか陽菜と弟の凪の生活費を工面できないか」
ということで、見つけたのが陽菜の特技であった「祈れば晴れさせることができる」というもの。
この特技を使ってsnsで「1回5000円でどんな時も晴れさせます」ということを拡散する。
それが徐々に広がっていき、仕事が舞い込んでいく。
その時東京では異常気象と言えるほど豪雨が続き、日本中で天候が悪化。
何十日も雨が続いていたので、陽菜の能力はかなり重宝されていた。
要するに、家出少年の主人公保高と、親がいない陽菜と二人が、一緒に働き過ごしていくっていう流れが、起承転結の「承」に当たる部分かと。
仕事も多く舞い込み、保高と陽菜とが順風満帆に進んでく。
弟の凪にも、「お姉ちゃんは僕のために働いてくれていて、青春を知らない。だから保高には姉ちゃんに青春を味合わせてほしい」
そんな言葉からわかるように、弟の凪にも応援されながら、陽菜のことが好きになっていく保高。
そうして、もうすぐ誕生日だという陽菜に向けて、保高は誕生日プレゼントを買ってあげるが、重大な出来事を知ってしまう。
それが「陽菜が晴れを願うほど、陽菜の姿が消えて言ってしまう」ということ。
なんかここら辺はff10のユウナに設定が似ている気もして。
敵であり、自然災害である「シン」を倒すために、「召喚士」という職業を選んだユウナ。
シンを倒すのが目的だけれど、そのシンを倒すための「大召喚士」になれば命をなくしてしまう。
そんな運命を背負っているのがff10のヒロインであるユウナな訳ですが、この天気の子の雛も同じで。
自然災害に見舞われ、ずっと豪雨が続いている東京。
その雨を晴らすことによって、どんどんと寿命を削られていく陽菜。
そのことを知って「晴れさせるアルバイト」をやめることをすぐ決意するわけですが、自体はここから急速に進んできます。
というのも、陽菜の誕生日プレゼントを渡そうと思っていたその日。
陽菜が弟の凪と一緒に住んでいるアパートに警察がきて、「森嶋保高くんという少年を知らないか」と警察が保高を探していることを知ります。
陽菜を助ける時に使った拳銃。そして実家からの捜索命令が重なり、探される身となった保高。
「知りません」と陽菜は答えるものの、未成年だけで住んでいる陽菜と凪にも「君たち児童相談所にいく必要がある」とのことで、3人の関係が徐々に阻まれていきます。
家もなく、仕事もなかった保高に、仕事を与え、事務所に住まわせていた須賀圭介の元へも警察が来ていて。
「児童を誘拐しているのではないか」
そんな疑惑をかけられたことによって、保高は須賀にクビにさせられてしまう。
家と仕事。
その双方を失ってしまう保高。
指名手配されている。
そのことから陽菜と保高は、弟の凪を連れて逃げることを決意します。
その時から、東京での天気は荒れ繰り周り。
夏なのに雨は土砂降り。豪雨と雷鳴が響き渡り、雪まで降るようになっていく。
泊まるところもなく、警察に追われ続ける3人。
やっとの思いで見つけたラブホテルで休息を取っている時、陽菜が保高に「保高はこの雨がやんでほしいと思う?」
そう問いかけます。
保高が頷いた翌日。
朝目を覚ますと、陽菜がいなくなっている。
陽菜がいない代わりに、昨日の異常気象が嘘かのように晴れ渡り、太陽が姿を現している。
その瞬間「陽菜が身代わりとなり、晴れさせた」という事実を初めて知ります。
多分ここが起承転結の「転」の部分。
家出をして陽菜と出会って。
陽菜の力を使い3人で生きていって。
その陽菜が突然いなくなってしまう。
そんな流れな訳です。
そこから陽菜をひたすらに探す保高。
警察に追われ、時には捕まるも、途中で逃げ出し、陽菜を探す。
1つだけ手がかりがあるとしたら、陽菜が天気にさせる力を宿したと言っていて代々木のビルの屋上にある神社。
そこに行けば何かがわかる、陽菜を連れ戻せるという1つ願いを込めて、警察に追われながらもひたすらに目指します。
その時。誘拐犯だと疑われながらも力を貸す須賀圭介。代々木まで警察を振り切り見送る圭介の姪の夏美。
警察に保護されながらも、変装し抜け出し、手助けをする弟の凪。
幾多の困難がありながら、代々木のビルの屋上にある神社へたどり着く保高。
神社に着き、鳥居をくぐると、グワッと雲の上まで登る。
雲の上には1つの世界かと思われるような場所があり、そこに眠る陽菜。
陽菜を見つけ、声をかける保高。
そこから何とか陽菜を連れ出し、助けることに成功する。
結局その後警察に保護されることになり。島へと戻される保高。
そこから3年の月日が経ち、また東京へ向かう保高。
あれから3年が経ち、もう一度陽菜と再開する。
そんな物語が天気の子です。
「天気の子」感想レビュー
と、まあここまでが天気の子の内容です。
んで。
僕がずっと引っかかっていたのが新海誠監督の「天気の子は賛否が分かれる作品」だと言ったこの一言。
シンプルに見れば、前作大ヒットした「君の名は」と、話の構成上似ている箇所も多い。
起承転結を取ってみても、君の名はで言えば
- 男女が入れ替わる
- 入れ替わりを受け入れ好意を持つ
- 入れ替われなくなり女の子の方の村が消滅していく
- それを助ける
こんな構成。
それに対して、天気の子も
- 家出した保高と親を失った陽菜とが出会う
- 晴れ女であることを武器に3人で暮らす
- 晴れさせる代償として陽菜が消えていく
- それを助ける
構成だけ見れば、以前大ヒットした君の名はの構成とすごく似ていることがわかる。
君の名はでは、「口移し」という日本古来の文明が、現代でも反映されていたシーンがあったりするが、この天気の子も「昔の巫女の姿」というような似た設定シーンもある。
だから、前回大ヒットした構成と似ていて、見終わった瞬間は「楽しかったな」というシンプルな感情が湧いてきた。
新海誠監督の映像の綺麗さもさることながら、RADWINPSの挿入歌も、やっぱり絶妙なタイミングで入ってきたし。
1つ1つの水たまりで、水が跳ねるシーンも映像は綺麗で、最後の「-天気の子-」という字幕もやっぱり秀逸。
だからこそ、「賛否分かれる作品」だと言ったのが、なおさら疑問でした。
どこが「賛否の否を生むのだろうか」と。
その理由を考えていくと、少し気になったのは「シーン展開」
君の名はがヒットしたのは、「映画「ボヘミアンラプソディ」を見た感想レビュー」にも書いているけれど、現代を如実に表した「シーン展開の速さ」が挙げられる。
長く集中できない現代において、シーン展開がパンパンパンと即座に変わっていく。
みていく中で、すぐ次のシーンに切り替わるため、みている方も飽きない。
だらだらと設定を流す映画も昔は多かったのに対して、その設定をすぐさまわかりやすくつなぎ、起承転結につないでいく。
映像の綺麗さや設定の面白さも君の名はがヒットした理由として挙げられるけれど、1番のポイントは、現代人の流行と文化を取り入れた「シーン展開の速さ」が僕は挙げられると思います。
その点で見ると天気の子は、起承転結で言うところの「起」と「承」までの話が少し長く、間延びしている印象を受けました。
東京で仕事がなく、家もない主人公保高。
そこから、ヒロインである陽菜と出会うまで、結構長く。
その間もこの映画のテーマである「晴れ女」の話や能力はほとんど出てこない。
だからこそ、少し間延びしている印象を受け、前回見られたシーン展開の速さは、少し遅いように感じました。
ただ、「東京は冷たい」っていうことを、視聴者に感じさせるには、やっぱり必要なシーンだと思うので、これが「賛否分かれる理由」にはなり得ないのかなって思うのも事実。
そこでもう1つ考えられるのは、「若者へのアンチテーゼ」
今の日本では「草食系」や「悲壮感」漂う若者が多くなっていて。
出る杭は打たれるじゃないけれど、打たれるのなら出ないでおこう。そう思っている節があると思う。
そんな「抵抗感」を破壊するっていうシーンが、この天気の子では描かれています。
まさしく、主人公の保高が陽菜を失い、警察から逃げて「1人の人を救う」とする最後のシーンでは、「損得」で考えれば、圧倒的に「損」しかないのに、陽菜を救うため翻弄します。
警察に追われながらも、諦めず逃げるところ。
ただ単に「家出」での捜索願いなのに、拳銃を突きつけ、さらに罪を負ってしまうところ。
電車の線路を逆行するシーン。
その保高のシーンに感化されたのか、ほとんど利益がない須賀圭介も夏美も、「傷害罪や公務執行妨害」という「大罪」を犯しながらも、保高を応援します。
これって理性的に考えたら、絶対に行わないシーン。
須賀圭介だけの立場から考えたら、突如として訪ねてきた少年に家を貸し仕事を与えて。
その少年が、実は警察に探されていると知れば、すぐに警察に差し出すもの。
自分が「誘拐」という罪をかぶるなんて、いわれのない罪ですし、それをすれば亡くなった妻との唯一の子とさえ会えなくなってしまう。
1つもメリットはありません。
だけど、圭介は、罪をかぶってでも助ける。姪の夏美も同じ。
要するに、論理的に考えれば絶対にやらないことも、1つの感情だけに突き動かされるのが人間だということ。
人は「不倫」や「浮気」をしてしまうのは、これが原因な気がします。
もちろんこの2つは悪いこと。
だけど、頭でっかちになり「論理的に考えて「動かない」ことよりも、感情に従って動くことの方が大事なシーンだってある。
むしろ現代の若者は、失敗を恐れて行動しない人が多く目立ち、「無難」な選択をしてしまうことも多い。
そんな「失敗を恐れる」ということや「行動しない」ということに対しての「若者へのアンチテーゼ」なのかなとも取れました。
「1つの感情だけで、遮二無二に行動してもいいんじゃないか」
これが新海誠監督のメッセージなのかなと。
またもう1つ「変化を恐れるな」ということも、言えるのかと。
これは最後のシーンで、陽菜を助けた3年後。
陽菜を人柱として、差し出すことで、東京の天気は回復する。
一方で人柱として陽菜を差し出さないと、東京の天気は荒れ狂う。
そんな「世界」か「一人」かの選択を施ばまれた時、主人公の保高は「一人の女性」を選択します。
その結果、陽菜は助かりますが、東京は多くの土地が浸水し、人が住めなくなってしまいます。
ただ最後のシーンにおいて、おばあちゃんが「本来あそこは人が埋め立てて作った土地であって、元々は海だったんだよ。それが元に戻っただけさ」
というようにいうシーンがあります。
要するに、「元は海なんだからそれが元どおりになっただけ。だから気にするな」というように主人公を慰めるシーンな訳ですが、どの時期に生まれたのかによって「人の当たり前」というのは変わります。
僕ら日本人が「戦争はいけない」と言っているのは、戦後に生まれたおかげ。
でも、戦前、もしくは戦中に生まれれば「戦争はいけない」ということ自体「非国民」に値し、「戦争を応援する」というのが、戦前戦中の人たちの当たり前です。
要するに、どの時期に生まれたのか、そしてその時期の「当たり前の価値観」によって、自分の意思や価値観は左右されてしまうということ。
天気の子でも「水没した」というシーンだけを見れば、そこに住んでいた人は「ふざけるな」と思うわけですが、「元から水没していた」という時期を遡って見れば、「元に戻っただけ」とも取れる。
その時、その時期によって人の価値観は違うわけです。
だからこそ、全世界とか、みんなとかを意識して「一個人」を失うのであれば、そんなのは「いい子ちゃん」が過ぎる。
時には全世界とかみんななんかを一切無視して、「じぶんのために」生きたっていい。
だから「変化を恐れるな」、「元々は0なんだ」という風に、この天気の子を通して新海誠監督は伝えたかったのかなとも感じました。
明石家さんまの娘であるIMALUの由来「生きてるだけでまるもうけ」
これにすごく近い感情です。
「人は生まれた時裸で生まれてくる。だから死ぬ時服1枚でもきてたら、それだけでいいじゃないか」
この言葉こそ、新海誠監督が言いたかったことなのかなとさえ思いました。
でも読み解けば読み解いていくほど、「賛否が分かれる作品」で語ったその本質を捉えられない気持ちにさせられます。
「これだろうか?ーいや違う。」「あれじゃないか?ーそうじゃない。」
こんな感じで、どの解釈も芯を食っていない気がして。
この葛藤こそが、冒頭に述べた
「面白かといえば、面白い。
楽しくないかといえば、そうじゃない。
でも弾け飛んだぐらい面白いかというと、そうはいえない。
一方で難しいか、と聞かれれば端的に見るのは難しくない。」
こう伝えた理由でした。
終わりに
シンプルに思った感想が答えなのか。
それともシンプルな裏に隠されたメッセージが答えなのか。
「賛否が分かれる作品」
その真相が、なかなかつかめませんでした。
天気の子という映画をシンプルに見れば、面白いです。
だからこそ、複雑な心境になって、どんどんと考察を広げてしまう。
ただ言えるのは、「考察を広げなければ、理解は得られない」という風な印象を与えた新海誠監督はやっぱりすごいというは言えるのかなと思います。
僕はお笑いが大好きなのですが、全盛期ダウンタウンは「笑えないのは、僕らのせい」という風に視聴者に思わせるほどのカリスマ性でした。
普通にお笑い見て。
自分が笑えれば、面白い。
自分が笑えなければ、つまらない。
そう感じるのが普通です。
でも、時代の最先端を進みすぎていたダウンタウンのカリスマ性は、「笑えないのは、僕らの感性が古いからなのでは?」そう見ている視聴者を巻き込むほどのカリスマ性でした。
今になって「面白いかつまらないか」は、その人自身が決めればいいことだと、至極シンプルな結論にいたりします。
ただ、「笑えないのはお前らがわかっていないから」と、感じさせたのは本当のことであり、そのこと自体はものすごいことだということに変わりはありません。
このダウンタウン現象と、天気の子の新海誠監督はすごく似ているのかなと感じました。
「賛否がある作品」
この意図が僕には最後までわかりませんでしたが、「面白いと思えないのは自分のせい」そう思わせるほどの実力がある。
そんな解釈が、一番正しいのかと思います。