今回はタイトルにある通り。
「サピエンス全史」を読んだので、小学生でもわかるように、なるべく簡単に解説していこうと思います。
併せて、最後のほうには、このサピエンス全史に関する感想とレビューに関しても僕なりの見解を伝えていこうと思います。
ではいきましょう。
あらすじ
まずそもそもこのサピエンス全史というのは、どういった本なのか。
ここの「あらすじ」の部分に関して、お伝えしていくと。
僕ら人間は種族として「ホモサピエンス」という種族だと、生物学的には言われています。
現代を生きる僕たちにとって、食べ物があり、住む場所があって、厚さも寒さもある程度快適に過ごすことができている。
さらには、外敵もおらず、敵に襲われることはない。
むしろ同じ種族である「人間」から、いじめや差別などと、襲われる機会のほうが多かったりもする。
こうやって現代を生きていると、当たり前になって気が付かないけれど、まぎれもなく「生物の頂点」にいるのが、僕らホモサピエンスという人種なわけです。
少しわき道にそれますが、僕らホモサピエンスは「生物の頂点」であることが当たり前のように思ってしまいがちですが、初めは全くそうではなく。
肉食動物に捕食される、「弱い生き物」であった過去があるわけです。
はるか昔人類の祖先は「死肉」をあさり、市街の脊髄の汁をすすりながら、食べ物を確保していたこともわかっていて。
今でいう「ハイエナ」的な生き方をしていたのでした。
何が言えるのかというと、生物の頂点に立ったというのは、人類がほかの生物たちとの競争を勝ち抜き「生存競争を勝ち抜いた」という過去があったわけです。
今でも、クマの腕力やライオンの牙には、僕ら人間は歯が立ちません。
1対1でこれらの動物と相対したとき。
絶対に勝ち目はないでしょう。
要するに「非力な人類」がいかにして「生物の頂点に立ったのか」
これを歴史から紐解いていく、というのが、このサピエンス全史のざっくりとしたあらすじだということです。
なぜ人類は最強の生物となれたのか。
ではさっそく本題へ。
そして、本題に入ると同時にこの本の「一番の大トロ」の部分に触れていきます。
それがこの「認知革命」というキーワード。
この章では認知革命に関して、ポイントを当てて解説していきます。
まず「いかにして非力な人類が生物の頂点に立ったのか?」
こう質問されたとき、多くの人が「武器を使えたから」と答えます。
僕もこのサピエンス全史を読む前は、そう思っていました。
でも「そうじゃない」と、サピエンス全史をかいたハラリ教授は言い切ります。
というのも、人類というのは今でこそ「ホモサピエンス」という種族しか生き残っていませんが、以前は多種にわたって「人類」が存在していました。
よく聞く名前としては「ネアンデルタール人」なんかが有名で。
僕らホモサピエンスのほかにも、ほかの種族が生存していたわけでした。
そしてこのネアンデルタール人を含む、ほかの種族も骨格などはかなり似ていて、知能などが高かったことが分かっています。
料理をする際に、石をナイフのように使い、武器などを考案し、複数人で狩猟する、という知能の高さが遺跡などから見つかっています。
また、「死者を見送る」ということを行っていた「お墓」などが見つかるなどして、その知能の高さは、僕らホモサピエンスとさほど変わらなかった、と推測されています。
要するに、僕らと同じぐらい「頭がよく武器も使いこなしていた」のにもかかわらず、絶滅してしまった、ということですね。
とすると、「武器を使えたから、生物の頂点に立てた」という仮説は正しくないことが見えてくるわけです。
では一体、何がホモサピエンスとほかの人類とを分けたのか。
それが先ほど出てきた「認知革命」であったと、ハラリ教授は訴えています。
認知革命とは。
認知革命とは一体何か。
これはいわゆる「フィクションを作り、それを信じること」が、簡単に言うと認知革命になります。
例えば、僕らホモサピエンスが、映画を見て涙したり、漫画を読んで感動したりします。
これはある意味「普通」のことですが、生物から見ると、全然普通じゃない能力です。
どういうことか。
というのも、ほかの生物も言語は話せなくても、声によってコミュニケーションをとることができます。
ただ、「フィクション」を作り出すことはできず、「現実」以外のことを伝えることができないとされています。
そしてこれはネアンデルタール人など、ほかの人種もそうであったと考えられています。
要するに、「フィクションを作ることができ、そのフィクションを信じることができる」
これこそが認知革命であり、ホモサピエンス最強の能力だ、ということなんですね。
そしてそれは生物界では、かなり特殊な能力にほかならない、ということ。
いやいやと。
ルフィの「ゴムゴムの実」ぐらいパッと聞いた感じ弱いイメージが浮かびますし、最初僕もこの認知革命の力を舐めてました。
でもこの認知革命こそが、この本の一番の大トロの部分であり、画期的な話の部分になっていきます。
どういうことか、なるべく分かりやすく解説していくと。
認知革命が生物最強へと人間を押し上げた
例えば。
新しい職場であったり、新しい学校であったり。
全く友達がいない環境に飛び込んでいったとき、好きな漫画が一緒だったり、同じスポーツをやっていたりしたとき。
すぐに仲良くなった経験はないですか?
いわゆる「共通の趣味」というやつですね。
この共通の趣味があれば、まったく知らない相手であっても瞬時に打ち解けあい、仲間になり、そして力を取り合うことができます。
人類というのは、想像の通りサバンナなどに頬りだされたときに、下から数えたほうが早く思えるぐらい「非力」な存在です。
だからこそ、「協力」しながら、自然界を生き抜いていかなければいけないわけですが、「協力できる仲間」を見つけるのは、そうそう簡単なことじゃありません。
法律やルールがない、はるか昔の時代。
同じ人種であろうと隙を見せれば、獲物を横取りされる可能性や、大切な家族を殺される可能性もあり、「信用する」「協力する」ということが、かなり難しくもあったわけです。
絶滅してしまったネアンデルタール人などの人類は、この「認知革命」がなかったため、家族や親せきなど数十の人たちのコミュニティが最大であったとされています。
ただ一方で、ホモサピエンスは「認知革命」という力があり、フィクションを作り信じることができたため、「血のつながりがない者たちとも協力し合えた」ことが分かっています。
例えば、森のふもとで暮らしていたとして。
「この森の聖霊は俺らのことを見守ってくれている」
そういったフィクションを作り出したとき、「この森にすむ人々」という架空の存在が組織をどんどんと大きくしていきます。
それがやがて村となり、町となり、国となった。
その数は数十の比ではありません。
つまりフィクションを作り出し、信じる力というのは、数億もの共通の仲間を作り出す、最高の武器になりえた、ということにつながるわけです。
となれば、10人のコミュニティが1000人の一致団結したコミュニティに勝てるはずもなく。
そして、一人一人が非力であっても、1000人も集まれば、だれも太刀打ちできない。
そうして、われらホモサピエンスが「生物の頂点」に上り詰めた。ということにつながってくるわけです。
認知革命は今もなお続いている
なるほどと。
認知革命のおかげで、共通で信じるものを作れたおかげで、仲間を広く持てるようになったから、生物の頂点に立てたのか。
そう理解しても、「いや昔の話じゃん」と思う人もいるかと思います。
全然そんなことはなく。
この「認知革命」というのは、現代でも続く能力の一つです。
その典型が「宗教」。
例えば「キリスト教」という宗教を例に出すと、血のつながりもない者たち同士であっても信者の数は数億人にも上り、一大組織を気付いています。
また、その一つとして「国」も挙げられるでしょう。
国も、国境に線があるわけじゃなく、僕ら人間が「定めた国境」を信じています。
でもそれは「すべてがフィクション」であり、現実のものじゃない。
要するに、いってしまえば、「嘘を作り嘘を信じれた」からこそ、人類は生き残ってこれた、ということ。
だからこそ「昔の話」ということでは決してなく。
今なお続いているホモサピエンスが持ち得ている能力だということなんですね。
サピエンス全史が教えてくれる現代人にとって大切なこと
ただ、「フィクションはあくまでフィクション」
それが真実であるとは限りません。
かつては地球は平であったと信じられていた時代もあるし、地球の周りを太陽が回っていると考えられていた時代もあります。
この認知革命がおこり、生物の頂点に立ったのちに、襲ってくる革命というのが「科学革命」というもの。
今までの人類というのは、「神様が守ってくれている」だとか、「地球が世界の中心だ」というように、誰かが作り出したフィクションを信じて生きてきました。
しかし、そこに「科学の波」が襲ってきます。
それにより、地球が世界の中心ではない、ことが分かり、太陽の周りを地球が回っていることが判明する。
要するに、今まで信じてきたフィクションが「嘘であった」ことが明らかになっていくわけです。
とこのように、ホモサピエンスがこれまでの生存競争を生き抜いてきた過程でおこった大きな革命を軸にしてこのサピエンス全史は進んでいきます。
そのうえでハラリ先生が訴えているのは、「皆が信じているフィクションは誰かの都合のために作りだしたフィクションなのではないか」ということ。
例えば国も、価値観も、宗教も、すべてそう。
同じ人種なのにもかかわらず、「争い」「奪い合い」などが続いていく。
でもそれは誰かが作り出したフィクションであり、存在しないものなのかもしれない。
そうしてハラリ先生の「ホモデウス」や「21lessons」などに続いていくわけです。
おそらくハラリ先生が訴えたいのは、「自分で考え行動すること」
それは他人の価値観に惑わされたり、誰か都合で作り出されたフィクションに騙されることなく。
そんな風に思います。
感想レビュー
ってな感じで、かなりざっくりと解説してきました。
実際にはもっと長いです。そしてもっと回り道が多いです。
科学革命や稲作の文化など、はるか昔から現代にさかのぼり、人類の繁栄に関して解説してくれています。
ただ、このサピエンス全史のメインディッシュは「認知革命」だと思ったし、この認知革命がこのサピエンス全史でおそらく初めて大々的に取り上げたテーマなので、ピックアップして解説してきました。
要するに、人はフィクションを作り、それを信じることができたから、生物の頂点に立った。
これが認知革命でした。
おそらくこのポイントが一番この本に取っての新しい切り口だったことと思います。
んで。
僕がこの本を読んで痛感するのは、21lessonにもつながってくることですが、「真実とは何か」
ここが僕ら現代人のテーマになってくるのかなって。
昨今では戦争をしたり、紛争が続いたりと、悲しいニュースが取り巻いています。
でも。
領土を取り合っている隣の国の「国境はだれが決めた?」
「地図の線には何があるの?」
そう考えていくと、人間が勝手に区切った線でしかないことが見えてくる。
「ないものを信じて争う」
なんかこれがバカバカしくて、でも悲しくもあって。
「真実って何」
っていうことを考えさせられる。
でも「認知革命」「フィクションを作り、信じる力」を念頭に置いていくと、「このフィクションはだれが作ったのか?」
「何が真実なのか?」
そうやって世の中を見る1つのヒントになる。
答えは簡単に出るものじゃないけど、一つ一つ考える手助けになる本なのかなって、感じました。
21lessonでも出てきますが「ストーリーを信じてはいけない」というのは、まさしくこれで。
誰かが都合のいいフィクションを作り、信じさせ利用するために、生み出しているストーリーなのかもしれない。
そうやって「認知革命」というキーワードを知っておくことで、自分だけの正しい道を進める一つのヒントになる気がしました。
人類を知っているようで知らない。
それはフィクションだから。
そんなきっかけをくれる本でした。
ぜひ参考にどうぞ。