先日読者の方から「中途半端で、長続きしません。」っていう意見をもらいました。
結構ボクらの業界のネットビジネス界でも本当に多く見られる現象です。
中途半端に終わってしまい、長続きせずに、挫折して行く。
こういう人を多くボクは見て来ました。
でも、この業界で2年半ほどやってきて、それなりに収入も得ているかく言うボクも、これまでやってきたスポーツだったり、勉強だったり、全てが完璧でこなせていた訳じゃなくって、そのほとんどが中途半端に終わってしまったものばかりでした。
例えば大学なんかも中退だし、サッカーものめり込んで行く中で、「サッカーを楽しめなくなった」という理由から、中学で辞めていますし。
そのほとんどが中途半端で、長続きしたことって数えても少ないぐらいです。
でも、「ネットで起業する」という部分だけは、絶対に中途半端で終わることは無くって、モチベーションなんかも多少上下はする物の、「諦めよう」って思うことは1回もありませんでした。
この「全てが中途半端で、長続きしません。」という質問をもらってから、ボクなりに「中途半端に終わってしまったもの」と「起業するということなどの、成し遂げられたもの」とで、どんな違いがあるのか、振り返ってみたんですね。
すると、中途半端で長続きしなかったことと、成し遂げられたこととでは、大きな違いが見つかったので、この記事を読者への解答としてお伝えしたいと思います。
ボクが中途半端で長続きしなかったこと
ボクがこれまで取り組んできたことで、中途半端で長続きしなかったことのなかで、冒頭にあげたサッカーという物があります。
小学生のときからやっていて、中学生のときに辞めました。
その時は無我夢中で走り抜けていて、本当に楽しかった。
中学のときに、全国優勝する高校から特待生の制度で推薦をもらったり、県の選抜なんかにも選ばれたりしていた。
でも、好きだったサッカーはいつしか「だれかにやらされている感覚に」なって行きました。
毎日毎日スケジュールはサッカーばかりになっていき、来る日も来る日もサッカー。
楽しいからサッカーをしよう、って言う感覚じゃなくて、スケジュールにサッカーが入っているから、練習場に行こう。
そんな感覚に、毎日どっぷり浸かっているサッカー漬けの日々で思うようになりました。
そして高校への進学を考えるときに「サッカーだけの人生ってどうなんだろう?」
そう思うようになり、高校ではスポーツはやらないという選択から、学生時代に中途半端に辞めてしまったのでした。
法律を勉強し、資格を取るんだと描いた大学生時代
サッカーを中途半端に辞めてしまった後、大学生になっていくと、もうじき待ち構える「就職」という関門が現れてきます。
このときは「社会に出るってことは会社に勤めて、そこで働き骨を埋める」
そう思っていました。
多少アルバイトなんかでも労働の社会は見たことがあった。
そのアルバイトで、ブラック企業と言われる社員の働く異様な姿を嫌という程見て来ました。
そのときに「社会と言う荒波に出るのに、自分は何も武器を持っていない」
そんな風に思って、必至に社会に出たときに、自分を守ってくれる武器を探しはじめました。
そして出会ったのが「資格」というもの。
それから法律を勉強して、難しいと言われる司法書士の資格を取ることを決意し、勉強しはじめました。
でも結論から言えば、これも全て中途半端に終わりました。
こちらの記事にも書いてますが、ボクの大学時代は本当に色んなことが起きた。
そして、大学は進むことは出来ずに、中退を余儀なくされた。
資格の勉強も、別にやりたいことではなくって、なんとなくで「持っておいた方が良いもの」という感覚で、勉強していただけだったことに気づいた。
それは社会に出たときの武器として持っておいた方が良いだろう、という感覚だったから。
勉強自体も独学で、全く試験とは無縁の法律の知識を埋め込んだだけでした。
結果的に中途半端に終わって、長続きすることはなく、試験にも落ち全く無意味な時間を過ごすことになってしまいました。
ボクが今も続けて来れているもの
資格の勉強、中学のときに習っていたスポーツ。
これらは中途半端に終わり、長続きしなかった物でした。
でも、そんな人間が、全て中途半端に終わったものしかないわけではありませんでした。
今でも続けて来れている物。
それは筋トレでした。
ちょうどサッカーを辞めた高校から始めたのが筋トレ。
このときに始めたきっかけは「身体が細くて、細いことに対するコンプレックス」だった。
大食漢なんだけど、胃下垂なのか、全然お肉が残らない。
周りからは「細いよね」と言われ、それが何だか鬱陶しかった。
細いという人は、「スマート」って言う意味で言っているのかもしれないけれど、ボクに取っては「ガリガリで頼りないよね」と言われているような感覚。
それがイヤでイヤで仕方なくて始めた筋トレ。
でもいつしか、成長して行く自分の身体を見て、筋トレが楽しくなった。
ジムに通うことも特に億劫ではなくなって行って、トレーニングすることが楽しくなった。
結果、今でも続けている趣味の1つになっています。
ネットでの起業
大学を中退してから、社会に放り出された。
放り出された場所は、世間で言うところのブラック企業と言われる場所だった。
いい大人による陰湿ないじめ。
長時間労働。押しくるめられた、逃げ出すことの出来ない満員電車。
その社会という物の存在を経験して行くうちに、ボクは「このまま社会人として、命を削りながら、65歳まで過ごすこと」に対して、本当に怖くなった。
絶対に、このまま年を取りたくない。
そう願った。
そこからなんとかこの労働地獄を抜け出すために、ボクは会社に雇われないで生きる道を模索しはじめました。
それは、会社に雇われる必要が無くなれば、この労働社会、いわゆるブラック企業から抜け出せると確信したからでした。
そこで見つけたのが副業。
この時始めた副業が、今になっては本業となっていき、形的にはネットで「起業する」という道のりを歩む結果と成りました。
これも「絶対にあのサラリーマンの頃に戻りたくない」
そう強く願っていたからこそ、ときには大変に思うこともあったけれど、中途半端に辞める、という選択肢はボクの中では絶対にありませんでした。
だから長く続けて来れた。
続けて来れたことと辞めてしまったことの明確な1つの違い
こうやって中途半端に終わってしまったこと。
途中で辞めてしまったことと、今でも続けられていることを見比べて、思い返してみると1つの共通点が見つかったんです。
それは「コンプレックス」から始まっているということ。
よく中途半端で物事を諦めてしまう人に対して「気持ちが弱いんだ」「やる気が無いんでしょ」と、ケツを叩く人がいます。
確かにそれは一理あるのかもしれない。
「中途半端で物事を終わらせず、やり遂げる」ためには、極論をいってしまえば気持ち次第なところはあると思う。
だけど、その強い気持ち。「絶対にやってやるんだ」という想いを生み出してくれるのは、プラスの感情ではなく、「こう成りたくない」というマイナスの感情でした。
プラスの感情は「こうやって慣れたら良いなぁ」と思う気持ちのこと。
マイナスの感情とは「絶対にこうは成りたくない」と思う気持ちのこと。
プラスの感情って、こう慣れたら良いなぁっていう感情なので、別にやり遂げられなくっても生活に支障はないし、最悪中途半端に諦めたって、今の生活は変わらない。
でも、マイナスの感情は「こうなりたくない」と思う気持ちなので、何かやらないと、いつまでたっても今のままで、生活の現状は変わらない。
だから、ボクはマイナスの感情=つまりコンプレックスが強く働いたときに、やり遂げられたことが大半でした。
筋トレを始めるにいたった「ガリガリ」というコンプレックス。
副業から独立するにいたった「社会で働き続けられない」というコンプレックス。
コンプレックスとは、多くの人が「イヤな想い」で見ていると思う。
でも今ボクは振り返ると、このコンプレックスが「絶対に中途半端では終わらせない。やり遂げるんだ」という活力をくれたと思うし、逆にコンプレックスが無かったら、簡単に辞めていたのかもしれません。
そんなマイナスの感情が、強いモチベーション、いわゆる「やる気」を保ち続けてくれたのでした。
多分中途半端になり、長く続けられない。やり遂げられない。
そう言う人は、プラスの感情、いわゆる「こうなれたらいいなぁ」ぐらいの想いだと思う。
でもそれじゃあ、人生を変えるほど情熱を燃やすには、燃料不足です。
一方で「これをやり遂げられなければ、死んだも同然だ」
そう思うほどのコンプレックスなのであれば、中途半端に終えてしまうなんて選択肢は浮かばないと思います。
ボクはそうでした。
ガリガリな自分も、この先何十年もブラック企業で酷使する自分も。絶対にイヤだった。
気の持ちよう。
と言ってしまえばたったそれだけなんだけど、プラスの感情なのかマイナスの感情なのかで、中途半端に終わるのか、突き進み続けられるのかが決まってくるんだと思いました。
終わりに
おっと。
ボクの想いを伝えるのが長くなってしまって読者のへの解答を忘れてました。。
「中途半端で、長続きしません。」
この質問に対してのボクの解答は「やろうと思ったきっかけは何ですか?それは本当に成し遂げられないと、死ぬほどの想いですか?
中途半端で、長続きしないのであれば、今一度「やろうと思った理由」を振り返ってみると良いと思います。」
そんな解答を送ると思います。
それでは。