ブログで文章の土台を作るときの重要すぎる2つの考え方

先日読者の方から「ブログを始めたいと思っているのですが、私は文章を書くことや考えることがすごく苦手です。学生の時の国語の成績も悪かったですし。こういう私はブログを始めるのことはできないですよね?」

というような意見を見かけました。

うん。なんていうか。すごく残念。

「こういう私はブログを始めることはできないですよね?」っていうスタンスがそもそも僕にはわかりません。

結論から言ってしまえば、僕の場合学生の頃の成績で国語は最悪でしたし、勉強したとしても全く面白くない教科ナンバーワンでした。

それは今も昔も変わらず。

んで。大人になって本はよく読むようになりましたが、それは「小説」っていうものでは決してなく、ビジネス書や雑学書だったり、自分のためになるものばかり読んでいる。

だから、ブログのために本によって文章に触れているっていう感覚でもないですし。

それでも、とある月では、文章のみによって月商1000万円売り上げる月があったりと。

ある程度の文章を構築できるようにはなって来ました。

でもそれって、文章を書くのが上手いとか下手とか、そういうことでは決してないんですよね。

 

ブログにおいての文章が上手いとは?

まずね。

ブログにおいての文章が上手いっていうのを、この質問をくれた人もそうなんですが、大半の人は「小説家」みたいなイメージを連想します。

芸人で言えば又吉みたいなね。

知的溢れる存在で、表現力が凄まじく、アイデア性のある文章を書ける人。

これが文章が上手いっていう風にイメージしている人が多いと思うんですが、僕が考えるブログにおいての文章が上手いって、全くこういうことではないんですよね。

例えばですけど、先ほど又吉の例を出したので、同じ芸人で例えるなら「都市伝説の関」っているじゃないですか。

「信じるか信じないかはあなた次第です!」

って指差すあの人。

あの人の「都市伝説」っていう本はバカ売れしましたよね。

いまだに特番でやりすぎ都市伝説を放送するぐらいで、今でも僕は大好きでよく見ているテレビ番組の一つ。

あの本を見てほしいんですが、あの都市伝説って本は、「文章が上手い!」っていう風な印象は特にないですよね。

どっちかっていうと「漫画」に近いイメージで、内容が面白いからスラスラ読んでいける。

そして、ブログってまさしくこっちの方を指します。

この本こそが、ブログで文章が上手いっていう人なんですよね。

 

ブログとは読んだ後、少し得した気分になれる文章がベスト

つまりどういうことかっていうと、アイデアや表現力を高め、文章によって人を感動させたり、高揚させたり。

時には憎悪するような感情を抱かせるような文章を構築したり、その設定を考えたりすることが文章が上手い=「小説家」

読んでいてストレスなく、スラスラ読め、読み終わった後、少しだけ得した気分になれる=ブログで文章が上手い=「ブロガー」

こんな違いというわけです。

だから、一般的に言われる文章が上手いと思われる必要は一切ないってことなんですよね。

だって。そもそも、小説って「タイトル」から、「この本読もう!」っていって本腰を入れて読まないと、読めないもの。

「漫画」だと思って開いたものが「活字の羅列」だった場合、ちょっと引いちゃいます。

もしグーグルで少しだけ調べ物がしたくて気軽に検索したのに、「難しい内容」や「小説ちっく」な始まりだったらビビりません?

それと同じ。

そしてここからわかるのは、ブログを行うということは、文章を小説家のように書くことが上手いということではなく、面白い内容や役に立つ内容を「わかりやすく伝える」ということがいちばんの目的で、僕が考える文章が上手い人ということ。

 

文章を書く上での2つの落とし穴

そんなことを言うと、「いや。私は面白い人間ではないし、わかりやすく伝えることもできません」

ってなことを言う人がたまに出てくるんですが、これも少し違っていて。

何が違っているのかって言うと、面白くない人間はいない。ってことなんですよね。

また、「わかりやすく伝えることができません!」って言う断り文句も、「あなた喋って会話してコミニュケーションとってないんですか?」って話。

全て変な思い込み。固定概念です。気を落とすことなかれ。

 

面白くない人間なんていない

1つ1つ、その思い込みをとろうかと思いますが、まず「面白くない人間」ってなことからいこうかな。

面白くない人間って、いないってのがそもそもの僕の持論。

だって、人って何にいちばん興味があるか?って言ったら、「自分以外の人」なんですよね。

自分以外の人の気持ちはわからないからこそ、他人が気になって仕方がない。

他人が気にならないのであれば、「映画」を見る必要だってないし、人を模写した「漫画」を見る必要だってない。

でも、漫画や映画は誰だって大好き。

要するに、「私は人に興味がない」って言う人ほど、他人が気になって仕方がないんですよね。

それじゃなきゃ、恋愛したところで相手の気持ちは丸わかりなんで、ドキドキもしないし、告白しようとも思わない。

だって、相手の気持ちがわかるのなら、イエスノーはわかりきってることだから。

でも実際には相手の気持ちはわからない。だから、告白する時だって、ドキドキしながらイエスノーを待つし、遡ればデートする時も「〇〇ちゃんは何が好きなんだろう?」って考える。

結局「相手のことが気になる」から、いろいろ考えるってことで、いろいろ考えるってことはそれだけ相手のことを気にしているってこと。

そう見て見ると、「面白い人間」って言うのは、自分以外の別の人を指すわけなので、面白くない人間なんていないんですよね。

そもそも、芸人のようにゲラゲラ笑わせることだけが「面白い」って言うベクトルではないし、スポーツやってる時のように、顔は笑ってはいないけど「最高に面白い!」っていう時のベクトルもあるわけです。

だから、「この人はこう考えているんだ!」とか、「この人の伝え方はわかりやすい!」ってだけで、「面白い」っていう感情を他人から持ってもらうことは可能だということです。

映画のように壮絶な人生を送っていたり、芸人のように毎秒笑わせることが、「面白い人間」と言ういうことでは決してありません。

 

ブログの文章とは友人との会話を意識しろ

そして最後の1つ。

「わかりやすく伝えることはできません」

っていう断り文句。

これに関しても、全く見当外れで。

なぜかって、「99%」の人は会話しているじゃないですか。

会話ってまず第一に、コミニュケーションの方法の代表格。

99%のほとんどの人は会話をすることで意思疎通できている。

そして意思疎通できていると言うことは、相手に対して「伝わっている」ことに他なりません。

そう考えるのなら、99%の人が、わかりやすく伝えることはできているということなんですよね。

ブログに必要なのも、文章が上手いという考え方でお話ししたように、わかりやすく伝えることや、少しだけ得した気分になれることだったりするので、「会話」としてのコミニュケーションがとれればすでに十分だということ。

でもほとんどの人は、会話と文章とを別に考えてしまって、会話は普通にできるけど、文章になると途端に固くなってしまう。

違うんです。

喋るように文章を書くのがいちばんブログの文章として適しています。

そして、その会話のような意思疎通こそが、文章としてのわかりやすさ構築してくれる一番の要素です。

だから、「わかりやすく伝えられません」というのは、大きな見当違いで、「会話ができればブログの文章は書ける」というのが僕の大きな確証です。

 

終わりに

もちろん、会話だと饒舌に喋れるけど、パソコンの前に座ると途端に固くなってしまう。

というのはありますよ。

でもそれは、練習の問題。

利き手じゃない方で箸を持てば、慣れない感じになるでしょうが、それと同じです。

練習してけば「そもそものポテンシャル」として、意思疎通できるわけですから、「ブログの文章」を会話のように、パソコンの向こう側の人に喋り書けるように伝えることこそが、「わかりやすい文章」を書く上でいちばん重要なことなんだと思います。