スマホがどんどん普及して、加速するスマホ依存症という現象。
そもそもケータイが子供にもたられるようになったのは、物騒なこの世の中で、安否を確認したいという想いから本来持たせたのがケータイ。
ただ、当初の目的から大分遠のいて、今は「遊びの遊具」として位置づけされているスマホ。
だからこそ、世の中的に「スマホ依存症はよく無い」なんてよく言われるようになりました。
ただそんな中で、ある発信者が「どんどんスマホ依存症になっていくべき」という風に発信しているのを見ました。
これはぼくも推奨ですし、全面的に肯定的ですね。
むしろスマホ依存症はどんどん加速すべきだと思っています。
スマホは高機能「情報収集ツール」
あるとき、表参道から電車に乗ったことがありました。
そこでふと電車内を見渡してみると、32中29人がスマホを片手にしていたんですね。
何だか異様な雰囲気に感じました。
そのときは、スマホ依存症は治した方がいい。という風に思いました。
ただ、ふと考えてみると、少し前は新聞を広げて、電車内を過ごすサラリーマンが大半でした。でもその新聞を見ているサラリーマンと、スマホを見ている人と「何が違うんだ?」って思ったんですね。
スマホでニュースサイトを見ているかもしれない。1ポイント英会話レッスンを受けているかもしれない。
移動中という少ない時間を有効活用する為にスマホを使っている可能性をそのとき思ったんですね。
新聞=学び。スマホ=遊び。
そんなイメージがつきまといますし、最初ぼくもそう思っていました。。
だからスマホ依存症な治したいし、治した方が良いと。
ただぼく自身がスマホをいじるとき、グノシーとかYahoo!ニュースとか、ニュースアプリを見るときが大半で、ゲームなんかほとんどしません。
ただ他の人から見ればスマホ=遊び。というイメージがつくので、当のぼく自身も異様な雰囲気を感じたんだと思いました。
スマホ依存症はどんどん加速すべき。
そんなことを言えば、どこからか「スマホ依存症なんてけしからん」なんて意見が飛んでくることと思います。
でも、今ではiPadで授業をするなんてことは当たり前に行なわれているし、医療現場なんかでもゾクゾクとスマホやタブレットが使われるようになりました。
確かに、子供にむやみ持たせることを推奨している訳じゃありません。
なぜなら小さな子供は情報の取捨選択が出来ないから。
何が自分に取って取るべき情報か、捨てるべき情報か。
この情報の取捨選択が出来ないので、変なものに騙されたり、怪しいサイトへログインしようとしたり危険が生じる訳です。
こういった選択が出来ない子供に、スマホ依存症を進める訳でも、むやみにスマホであそばせようと思っている訳でもありません。
ただ間違いないのは、スマホとは高機能な情報収集ツールということに間違いないと思っています。
これは東大生がやっていた勉強法ですが「日常を勉強する」という勉強を行なっているのを見て、ぼくは感心しました。
机に座って「いざ勉強」をするのではなく、日常の中から難しい単語を拾って来て意味を調べて見たり、言葉の成り立ちを考えたり、日常の生活がもう勉強そのものになっている。
その東大生は、そんな勉強をして東大に入ったのでした。
この勉強法に関して、スマホを使えばもっと色んな情報を、幅広く拾うことが出来るようになる訳です。
友人のTwitterをただ単に見るだけじゃなく、有名な経営者をフォローすれば、経営者のタイムリーな考えをキャッチ出来ます。
世界的なスポーツ選手の名言を日常の中に落とし込むことも出来るし、Twitterひとつとっても1秒間に万単位の情報を「選び掴む」ことが出来る訳です。
さらにぼくの場合は、数十のメルマガ誌を購読しています。
1日の10以上のメールが届くし、文字数は1通2000文字を超えるので、溜まったメールを見て回ると、それだけで1日の多くの時間を費やしてしまいます。
が、スマホ依存症で常にメールをチェックしていれば、こまめな休憩時間、昼食時間、あいだあいだで常に頭を働かせて、情報を収集することが出来る。
このこまめなインプットこそ、スマホ依存症の最も良いところであり、このこまめなインプットこそ、すーっと頭の中に入ってくる身になる情報だと思います。
だからスマホ依存症はどんどん加速すべきだと思うし、こまめに日常を勉強の場に買えることが出来るのなら、スマホ依存症になった方が、成長スピードは格段に速いと思うんです。
要はスマホの使い方
冒頭で伝えた通り、情報の取捨選択が出来ない子供にスマホ依存症を進める訳ではありません。
多分だけど、youtubeを見たり、友人と交遊する為にSNSをしたりするだけで、大半のスマホの活用は終了しているでしょうから。
じゃあ、遊ぶ目的だけがスマホの活用法かといえば、全くそうじゃない。
要するにスマホの活用方法によって、意味は全く変わってくるんだと思っています。
ぼくが小さな頃は、スマホはもちろんケータイもほとんど普及していなかった時代なので、ぼくの小さな頃と今のスマホを比較すると、テレビゲームが一番近い存在。
そんなテレビゲームをしていれば、必ず親に「ゲームばっかりするな」としかられたものでした。
その頃はテレビゲームでは、「ゲーム」しかなかったので、ゲーム依存症というのは、大分娯楽性が強い象徴です。
ただいまのスマホはどうか。
確かに種類豊富はスマホゲームもありますが、それ以上にビジネスシーンで活用するアプリも多彩にあるのがアプリです。
チャットワークなんか社内の場で活用するし、スケジュール管理もスマホ一個です。
学生なんかでも、受験勉強としてのアプリも存在するし、ネット講座の塾なんかではスマホが学習塾場です。
スマホをしている=遊んでいるという公式さえ今はもう違う認識。
現に、iPadを使った学校さえもう存在してる訳ですから。
進研ゼミなんかもタブレットを使った勉強法を活用していますしね。
これら全ては使い方だと思うんです。
ノーベル賞のノーベルもダイナマイトを戦争の為に使うなんて考えなかった。
でも使い方が悪ければ、戦争を助長する道具になってしまう。
遊びとしてスマホを使って、依存症になってしまうのであれば、よく無いツール。
ただ、学びの場としてスマホを使うのであれば、これほど持ち運びにすぐれ優秀なOSを持っている端末はスマホ以外にあり得ません。
使い方1つで、どんどんスマホ依存症になったって良いんです。治す必要なんてこれっぽっちもないと思います。
さらにもう一つスマホ依存症を治す必要はないって思う理由が、色んな考え方をキャッチ出来る点です。
当然ぼくもですが、人間は興味のある分野しか、情報をキャッチしません。
心理学用語でラスなんて言われますが、それだけで視野が極端に狭くなってしまう。
そんな極端な視点で、ミクロマクロな様々な角度から物事を見れるかといえば、間違いなくあり得ないと思います。
ただスマホから流れ来る情報とは、場所を選べば受動的に入ってくる情報に変わる。
自分が興味のない分野も、考えもしなかった別の角度からの見方も、自然と触れる機会になると思うんです。
その流れて来た情報に対して、反対意見もあるだろうし、賛成意見もある。
ただ、1つ確かなのは、流れて来た情報に対して「考えるきっかけになったこと」派間違いないと思います。
それこそが、受動的に情報が流れてくるスマホ依存症を治す必要がない理由です。
「自分はこう思う」そう一人一人が考えることが、自分の軸となる考えを決める連取代となると思います。
知見を広げてくれるのであれば、スマホ依存症を治す必要なんてなくって、むしろどんどん加速すべき。そう思いますね。
なので、「スマホ依存症になった方が良い」という冒頭の意見は、ぼくは基本的に賛成です。
もちろん、情報を取捨選択出来ない子供とか、使い方を知らない学生とかがスマホ依存症になるのは反対ですけど。
社会人であれば、どんどん加速すべきだと思います。