今回はタイトルにある通り。
「認めてほしい」という感情、いわゆる「承認欲求」に関して面白いことを知ったので、それをシェアしておこうと思います。
まず結論から行ってしまうと、この「誰かに認めてほしい」という感情は「誰かに褒めてもらいたい」という感情は、今すぐに捨てるべきで。
誰かに認めてほしいと思っているうちは、幸せになれず、不幸に陥る可能性が高い、ということが結論になります。
認めてほしいという感情の罠
ではなぜ。
認めてほしいと思うことが、不幸への入り口となるのか。
この辺りを解説していこうと思いますが、ポイントは3つあります。
それが
- 破産リスク
- 他人との比較
- 完璧主義
これらが認めてほしいという裏側に潜む罠になります。
具体的に見ていくと、まずは破産リスク。
お金が無くなる
誰かに認めてほしいという感情は、破産リスクを高めることが分かっています。
具体的に、収入が上がっていくと、その「誰かに認めてほしい」という承認欲求は高まっていきます。
収入が上がっているうちは、いくら散財しても収入が支出を上回っていれば何とかなるものの、恐ろしいのはここからで。
収入が落ちていった際、散財はより高まる傾向にあることが分かっています。
収入が落ちていっても、「誰かに認めてほしい」という感情がある限り、収入が落ち込んだことを隠さなければと考えるため、余計に散財するという思考に至るわけですね。
ですから、収入よりも見栄のための支出が上回り、破産する確率が高まる、というのがこの「承認」という欲の怖いところ。
これが1つ目の罠になっています。
他人と比べてしまう
そしてもう1つが、「他人と比べてしまう」ということ。
これは数々の論文が示唆していますが、他人との比較で生まれるのは「不幸」そのものです。
実際に上記で上げた記事なんかでも、比較することによってIQが下がることが分かっています。
また僕自身も強く経験したことがあって。
それはまだサラリーマンのころで、比較癖が根付いてた時でしたが、慣れない土地で独り暮らししているころ。
当時は大学中退して、社会人になりたてで。でも周りは学生で遊び惚けていて。
SNSなんかを見ると、常に遊んでいる写真が掲載されていました。
その時に「なんで俺はこんなぺこぺこして汗水たらして働いているのに、周りは華やかに遊んでいるんだ」と悔しくなったのを覚えています。
そんな時は決まってがくんとモチベーションが下がり、卑屈とネガティブで頭の中は渦巻いて、どんどんと「俺を認めてほしい」と孤独になったことを覚えています。
もうだいぶ前の話ですが、実体験として「他人との比較」は不幸を漏らすことを痛感していました。
これが2つ目の罠。
完璧主義
そして最後の罠は「完璧主義」
認めてほしいと思えば思うほど、完璧主義に陥ることが分かっており、この完璧主義も数々の研究で「不幸への入り口」だということが分かっています。
上記で紹介した研究なんかでも、完璧主義はメンタルに弱い傾向にあり、成功する人の割合が低いことが報告されています。
実際に僕も昔は「完璧主義」で、「不完全なものに価値はない」と思っていた側の人間でした。
むしろ「完璧を目指して何が悪い」と思っていたのも事実です。
多分上記記事で上げられている「なかなか性格を変えられない」という特徴にビッタシ当てはまっていた典型的な事例だったと思います。
当時。
完璧主義がメンタルに悪影響ということは知りませんでしたが、それでも完璧主義だった僕は「完璧になるまで進めない」という葛藤のさなかにいました。
ともすると、完璧になるということはほとんどありえないので、それは「一向に前に進めない」ということを意味します。
そのうえ、人間のモチベーションは「成長」により形成させることが分かっていて、「前に進んだ」という気持ちがモチベーションにつながります。
完璧になるまで進めないということは、そこからモチベーションを高まる「成長」を感じられないので、ずっとそこで停滞していることにつながる。
当時を振りけると「何か変えたいけど、何も変わらない」という現象は、きっと「完璧主義」という罠に陥っていたからだと、今ならわかる気がします。
誰かに認めてほしいを今日からやめるには。
ではどうしたら「認めてほしい」という呪縛から解放されるのか。
1つ1つ見ていくと。
まず「破産リスク」に関してもそうですが、根底の部分では「他人との比較」というものが入ってきています。
「認めてほしいから、見栄を張る」
「他人と比べて自分のほうが優れていると証明したい」
そういった思いが、破産リスクを高めるし、見栄を張らせる。
つまるところ「他人との比較」を回避するのが、先決になってくる。
僕がやって一番効果が高かったと感じるのは、やっぱり「過去の自分との対比」
これが一番効果が高かったように思います。
やはり人間だからこそ、「比較する」というのは一つの目安になり、便利な指標の一つ。
これは生物学の本を読んだときに痛感したものですが、「平均値」や「偏差値」というのは、動物界には当然存在せず。
僕ら人間が「認識し区別できるように」設定された指標です。
逆にこれらがあるからこそ、「他人との比較」が生まれ、不幸を呼び寄せてしまうようになったわけですが、何が言いたいのかというと「人間が勝手に作った一つの指標」に過ぎないということ。
比較することはそれだけ便利ですが、それに縛られてはいけない。
比較すべきは「過去の自分であり、昔より成長できたか」というポイントが一番大切なこと。
これは小さな一歩に見えて、かなり大きなポイントだったと思います。
そしてこの「過去の自分より成長できたか?」というポイントにスポットを当てると自然と完璧主義から脱却につながっていって。
「過去の自分より前に進む」ということがゴールになると、「完璧主義」から「改善主義」に自然とつながります。
完璧主義がいけないのは、「完璧になるまで進めない」ということで、どうすればいいのかといえば「改善しながら前に進む」ということ。
過去より今。今より未来。
こう考えると、自然と完璧主義が抜け落ち、「徐々に良くしていこう」という改善主義にシフトすることができる。
それがいわゆる上記で解説されているコロンビア大学の教授が「緊張や不安に強くなる」としている「成長ゴール」の定義に繋がるわけです。
まとめ
とまあ、少し長くなってしまったので、簡潔にまとめておくと。
誰かに認めてほしいという感情は、おおよそ「他人との比較」により生まれる。
他人と比較すべきではなく、「過去の自分との比較」することが大切。
そのことにより破産リスクはもとより、完璧主義からも脱却することにつながり、誰かの幸せやうらやましいという感情を相殺するができる。
まとめるとこんな感じです。
そのほかにも、見たくもないのに「比較してしまう」というSNSなどは僕を、ある時から一切やめました。
確かにやっているときは楽しいんですが、マイナスになる要素が多くて、あんまりメリットにならないなって。
それは上記記事でも挙げた通りですね。
これはどのSNSでもそうですが、基本的にSNSに挙げる写真は「誰かに見せたい写真」で、「きれいに施された写真」です。
ブサイクな自分は載せないし、加工していない写真は載せない。
でも毎日が毎日輝いているわけじゃないし、多くの人がすっぴんはブスです。
そうなるとSNSをやっているだけで「華やかな生活みんな送っているのに、私は何をしているんだろう」だとか。
「あんなかわいい子がいるのに、私はなんてブサイクなんだろう」と、勝手に比較が始まってしまう。
そこから「誰かに認めてほしい」という感情は自然に沸き上がり、破滅へとつながっていってしまう。
だからSNSは百害あって一利なしと判断したので、すべてのSNSをやめました。
こうやって比較の原因となる要素を排除していくのいいかもしれません。
ぜひ参考にどうぞ