今回はタイトルにある通り。
イェール大学のシェリーケーガン教授が書いた「DEATH:死とは何か」を読んだので、その詳細と解説をしながら、感想をまとめていこうと思います。
まず結論から言ってしまえば、この本結構面白いです。
あらすじ
まずこの本。
どういった本かということをザックリ解説していくと、タイトルとサブタイトルにある通りで。
「死とは何か?」ということを、シェリーケーガン教授が独自の目線から解説したものになっています。
んで、この本の原本というか、元になったのが「大学での講義」というのが、この本のもとになっているので、結構読みやすい本になっていて。
池上彰さんが書いた本もこういった形式をとっていることが多く、やっぱり大学での授業ベースでの本は、「生徒に教える」ことを主軸にしているのでわかりやすい。
(マイケルサンデルの正義に関しての本も同様ですね)
話を戻して。
多くの人が「死ぬのは怖い」という風に思っているかと思いますが、このDEATH:死とは何か?では、「死ぬのは全く怖くない」という風に言い切っているのが印象的。
今まで道の存在だった「死ぬこと」に関して、あらゆる視点で解説しているのが、この本のざっくりとしたあらすじだということですね。
まずはここを抑えておくと、シェリーケーガン教授の言っていることが、より入ってきやすいかと思います。
死ぬことは全く怖くない
んでね。
ここから徐々にこの「死とは何か」の本題とその解説に入っていくわけですが、ケーガン教授の初めの主張は「死ぬことは全く怖いことじゃない」というところから始まります。
いやいや、と。
多くの人は「死ぬことは怖い」と思います。
ただそれでも死ぬことは怖くない、とこのケーガン教授は言い切ります。
というのも。
そもそも僕ら人間が「怖い」と感じる大きな理由は「わからない」ということが大きな原因となっていて。
死ぬことが怖いと感じるのは、「死」というものがどういったものなのか、まったくわからないため、反射的に「怖い」と感じるようになっている、と本では語られます。
ただもし「わからない=怖い」という方程式が成り立つのであれば、「死」というのはわからないことではない、という風にケーガン教授は言います。
「死は理解できる。だからこそ怖いものじゃない」
これがざっくりとしたケーガン教授の主張なんですね。
死とは無である
ここから「死とはどういったものなのか」ということが、細かく解説されていきます。
まず初めに「死とはわからないものじゃない=怖いものじゃない」
こういった図式になる、と解説していきました。
僕ら人間がもし死んだときに、どうなるのか。
一つの考えとして肉体は朽ちていき、「魂」が現世に残る。
そんな一つの考え方があったりします。
ただこれをケーガン教授はきっぱり否定します。
ケーガン教授曰く「肉体という入れ物がなくなったときに、魂だけが別の場所で残るとは考えずらい。」
昔から「心と体」という風に、分離して人間という生き物を考えてきましたが、心というのも「脳」が生み出した一つの機能に過ぎない。
そうなったときに肉体=脳が死んだとき、魂だけが生き残ることは考えられない、とケーガン教授は言います。
だからこそ、加えて「死とは無である」というこの本の大きな結論部分をケーガン教授は言うわけですね。
死=睡眠
いやいや、と。
もし仮に死ぬことが「無の状態」であったとしても、無の状態になったことはないし、無の状態がどんなものなのかもわからない。
無の状態がわからないのであれば、「死ぬことは怖いことである」という事実に変わりはない。
そう思うかと思います。
このことに関してケーガン教授は「皆が毎日のように「無」を経験している」と。
その経験している「無」というのが、睡眠だというんですね。
わからない人もいるかと思うので、一応解説しておくと。
睡眠というのは、大きく分けて「2種類」に分けられます。
それがレム睡眠とノンレム睡眠。
これは簡単に言えば「深い眠り」か「浅い眠り」かを意味していて。
夢なんかを見るのは「浅い眠り」の状態であり、一切意識がない状態が「深い眠り」の時を表しています。
睡眠のサイクルは、この「浅い眠り」と「深い眠り」を交互に繰り返し、やがて目を覚ます、というサイクルになっていることが分かっています。
そしてこの時の「深い眠り」というのは、意識が何もない状態であり、ケーガン教授が言う「無」の状態だということ。
つまり、「死=無」の状態とは、「深い眠り」の状態と同じであるということで、「ほぼ毎日」のように僕らは体験している、ということをケーガン教授は言っているわけです。
ですから「死というのは、わからない存在ではなく、皆が毎日のように体験していることだから、怖いものじゃない」
という最初の主張につながってくるわけですね。
分かっていても死ぬのは怖い
なるほど、と。
死ぬことが怖いのは「わからないこと」が大きな要因であるが、本当は死ぬことはわからないことじゃない。
むしろ「毎日」睡眠により体験」しており、実は知っていることである。
だからこそ、死は怖いものじゃない。
ここまでの主張は分かった、と。
だとしても「いやいや。死ぬのは嫌だ」という人が大半だと思います。
それに対してケーガン教授は「はく奪説」というものを説いていて。
死を理解しても死ぬのは嫌だ、というのは「はく奪説」が由来だということを指摘しています。
このはく奪説というのは、「奪われる」ということを意味していて。
ようするに、「これから良くなる未来が死ぬことによって奪われるのが、嫌だから死にたくない」
という風に施行することを、はく奪説という風に説いています。
その証拠に。
すべての人間が「死ぬのは嫌だ」と思っているかというとそうではなく。
「もう死んでもいい」という人は、この世にごまんといます。
例えば、100歳を過ぎたご老人の方。
こういった方たちに話を聞いてみると「もういつ死んでも後悔はないよ」と、ある種悟りを開いた境地で死と向き合っている人がいたりします。
またほかにも、治る見込みがない、がんなどの病気に苦しんでいる人は「もう死んでもいい」と思っている人はいるわけです。
このように「後悔」や「未練」、「よくなる未来」がない場合は、奪われるものがないため、「死を受け入れる」という境地に立ち、死を恐れない状態になっているわけです。
つまり、はく奪説により、今死んでしまえば「後悔」が残ったり、「未練」があったり、まだ未来に「希望」があり、それが死ぬことにより「奪われる」ことが嫌なので、「死にたくない」と人は感じる、ということをケーガン教授は言っているわけですね。
死と向き合うことで、生きる意味を知る
と、まあざっくりとこのDEATH「死」とは何か、の本の内容をまとめてきたわけですが。
ここまで読んでいくと、結構厳しいことを言ったり、どこか「死を推薦しているのでは?」と錯覚するような描写があったりと、ケーガン教授が結構きつい人のように感じます。
でも、大切なことは「死ぬこと」を見つめなおすことにより、「生」の意味を見出すことが、この本の伝えたい意思で。
なにも「死ね」ということを言っているわけでは決してありません。
ケーガン教授は「自殺」に関しても、独自の理論を展開していたりしていますし、死ぬことから生きる意味をかなり説いています。
いやいや、きれいごとを言うな、って思う方もいるかもしれませんが、実際に研究によって証明されています。
上記記事で詳しく解説していますが、自分の死について考えることによって、モチベーションややる気といったものが高まることが分かっています。
これらを見てみても「死」と向き合うことが、逆に「生きる活力」を与えることが分かっているわけです。
つまりこの「死「とは何か、という本もまったく同じで、死と向き合うことによって「生きる」ことを考えることが、メインテーマになってくる部分なんですよね。
感想レビュー
んで。
実際に僕自身もこの本を読む前から、輪廻転生だとか、魂だけがこの世に残る、といったたぐいの話は全く信じてなくて。
「死んだら無だろうな」っていう風に漠然と感じていました。
でも、この本を読む前は「無とは何か?」ということを言語化することはできなかったし、その理論に関しても理解が浅い状態で、いわゆる「推測」の域を出ませんでした。
天国とか、地獄だとかは全く信じていないし。
もし仮に、天国や地獄があるのであれば、なぜ絵画で描かれる天国や地獄はどれも同じようなものなのか。
全く理解できなくて。
それは一人の人が書いた「天国や地獄」にインスパイアを受けて、人間が語り継いできた一つの「神話」に他ならず、「事実ではない」と思えてしまっていたためでした。
だからこそ、死=無で、天国も地獄もない、と思っていたわけですが、この本を読んだときに断片的な推測のピースが、一つにまとまった感じがしました。
そして何より「死を体験している」というのが、大きなインパクトとして残っていて。
「死して生きる」
そんな大切な言葉を教えてくれた感じがしました。
もちろんこのケーガン教授が言っているのも「死を見てきた人の話」ではないので、可能性の話であることは覚えておいたほうがいいかとは思います。
本当に魂だけはこの世に残るのかもしれないし、本当は地獄や天国はあるのかもしれません。
それを信じる人を否定する気持ちはありませんが、一度見ておくと、世の中を見る目がかなり変わる本だとは思います。
ぜひ参考にどうぞ。